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エックハルト・トールが語る 許すことと思いやりの違い

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あなたの存在そのものは、何者によっても傷つけられません

あなたの存在そのもの、つまり、あなた自身のより深い次元とつながった状態にあれば、許しは簡単になります。なぜなら許しとは、肉体のレベルであなたに行われたことに向けて、なされるものだからです。ある人からあなたへ痛みが与えられた、または何らかの領域侵犯がなされた場合です。

つながった状態から眺めると、なされたことの客観的な性質が分かります。つながった状態にいる時、あなたは決して傷つけられることのないものに触れています。その部分はあなたの中にあり、何者によっても傷つけられることはありません。傷つくのは「かたち」の次元の存在であり、感情体や肉体としてのあなたです。

許しの最初のステップは、それが無意識に行われたものだと理解すること。そして相手がしたことと、その人のパーソナリティを同等に考えることは出来ないと理解することです。あなたを「傷つけた」人は、自分の育った環境や条件によって、制限された思考によって動かされているだけなのです。

許すということは、悲しみや怒り、その他のネガティブな感情に留まらないことです。そしてそれが可能になるのは、「かたち」を超えた、あなたそのものに触れている時のみです。その次元には、恐れるべきものや、リアルでないものは、何も存在しません。なぜならそこは、神さまが存在する次元だからです。

傷とは、起きた状況に対してマインドが下す判断によって形成されます。実際、判断を取り払ってしまえば、さほど大きな事件は起きていないのです。

たとえば、あなたが誰かと会う約束をしたとしましょう。5時に集まろうと約束したのに、彼は現れませんでした。マインドは、こう判断します。「彼はひどいやつだ」「私は裏切られた」。そのような判断によって、「傷つけられた」と言う感情が生まれます。けれども、ありのまま起きた事実だけを見つめれば、「彼は来ると言ったのに、来なかった」という、たったそれだけのことです。しかし「裏切られた」という判断が、「傷つけられた」という感情を呼び起こし、マインドによって何度も反復・強化されます。そこで感じる「傷」は、エゴの自分が感じるものです。

なぜなら、エッセンスとしてのあなたは、それらを超えた存在だからです。

The Nature of Forgiveness | Is it Different from Compassion? by Eckhart Tolle on YouTube

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思いやりとは

思いやりとは、あなたとあらゆるすべてを結ぶ深い絆に気づくことです。この絆、つまり思いやりには、二つの側面があります。一つは、あなたはまだ物理的な肉体としてここに存在しますから、肉体のあなたが持つ弱さや儚さを、他のすべての人間、すべての生物と共有することです。「私はこの人と共通点がありません」と言うときには、あなた方には多くの共通点があることを覚えておいてください。

不死の次元、あなたの本来の性質を理解することが、思いやりのもう一つの側面です。深い感情のレベルで、あなたは自身の儚さだけではなく、他のあらゆる生物の儚さにも気づきます。肉体のレベルでは、死すべき運命にあります。存在そのもののレベルでは、あなたは永遠であり、輝く命です。これが思いやりの二つの側面です。思いやりとは、悲しさと喜びという一見反対のものが、一つに融合し、深い心の平和へと変容することです。これが神さまの平和です。

パワーオブナウ 魂が目覚める日々の言葉

許しというのは、許したから優れているとか、愛があるってことではないんですよね。宇宙には善悪はなく、出来事はニュートラルですから、許そうが許さなかろうが、どっちでもいいんです。でも、それが痛かったり苦しかったりするなら、和らげることもできて、それがここで言われている許しなのだと思います。

『 思いやりとは、悲しさと喜びという一見反対のものが、一つに融合し、深い心の平和へと変容することです。これが神さまの平和です』は、名言中ですね。生きることは、時々不格好だけど、それでも人生にイエスを言いたいです。

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「エックハルト・トールが語る 許すことと思いやりの違い」への8件のフィードバック

  1. わたしの場合は
    許しは『起こるもの』で
    思考や感情の延長ではないことが多いです。

  2. 私の「許し」は、
    「もういいや」って、自分の中で「終~了~」が聞こえた時に起こる、半ば「あきらめ」に似たものかも(笑)
    もちろんそこに至るまで散々モヤモヤしたりイライラしたり、そんなに簡単に至る気持ちではないですが。

    まあ、あきらめでもなんでも、「許し」が必要な感情を手放せることがいいかな✨
    なかなか嫌な物事を「忘れる」は難しかったりするけれど、
    相手のためより、自分のために早め早めの「終~了~」を心掛けたいものです(^ー^)

  3. 与える愛の隣人愛。教師のような活かす愛。許す愛から存在の愛。

    そんな風に愛には学びの段階があって、その段階を経て自分自身の次元が上昇していくんだよと教えてくれた人がいました。

    そして、隣人愛と活かす愛までは、智慧のある経験豊かな人の側にいて助言を聞きながら言動出来るけど、許す愛から先は、この世で失敗を重ねたり、恥をかいたり、辛酸を舐め尽くして、ゴリゴリに揉まれないと身に付かないんだよと習いました。

    私も人生を重ねてきて、ようやく、習ったことを頭ではなく、体験として実感できるようになりました。。。

  4. 3次元の中でゴリゴリに揉まれて、許す愛を身に付けるためには、小説のようにたくさんの背景と配役がいるな。。。と、思いました。

    みんな、それぞれが、穢れのない美しい魂なんだけれど、この三次元でさまざまな体験をするためと、みんなが協力して魂を成長させるために、地球に降りたった時に、さまざまな着ぐるみを魂にまとうんだなと思いました。。。

  5. むかーしむかしの話ですが、
    私が前のダンナさんと別れたきっかけはダンナさんの浮気(それも比較的新婚時代)で、
    それも相手が私の直属の部下で隣のデスクに座ってる女の子という、
    まさに青天の霹靂というか、なんかもう昼メロみたいな展開でした(笑
    その当時は、もちろん相手を恨んで憎んでドロドロした気持ちが湧くばかりでしたが、
    それをきっかけに愛ってなんだろうと真剣に考えはじめ、
    毎日図書館に通ってはいろんな本を読みはじめてから
    バシャールだのなんだのとスピリチュアル系の本にも出会い
    自分が、人生が、まったく変わりました。
    数年後には、もう元ダンナさんにも相手の女の子に対しても
    感謝の気持ちしか見当たらないっていうか、
    ホント、それがなかったら今の自分は居ない。と。
    許すというよりも、もう、出会えてありがとう。という感じになりました。

    こうした大きな出来事な場合はパラダイムシフト的な目覚めのための出来事なので、
    他人の事を「許す」境地というか気持ちになるのって、
    比較的簡単なような気がします。

    そして前のダンナさんと結婚していた時から
    ずっと人生の伴侶として暮らしていた飼い猫が
    最期の時期、腎臓病になり、高齢でもあったので毎日病院に連れて行くとか
    入院させるのは猫にとって負担になるという病院の先生の話もあって
    おうちでゆっくりできるよう、毎日、自宅で注射で背中に点滴をしてあげていました。
    それでも注射に慣れていない私にとっては
    大きな注射針をうつのはかわいそうで、けっこう辛い作業でした。
    毎日半泣きというか、たまに号泣しながら、それでもがんばって打っていました。
    そして数日後、様子を診てもらうために病院に連れて行った際に、
    体力も持ちそうだし1日だけ入院させますか?
    と言われて、救われた気持ちになり1日だけ入院させたところ、
    その日の夜に病院で逝ってしまいました。(泣
    私はなぜ途中で投げ出してしまったのかと悔やみました。
    そう長くは生きられないと知っていたので、
    自宅で最期を看取ってあげられなかったという後悔は
    まったく消えることはないです。
    もう10年以上経ちましたが、
    その時の自分の弱さや未熟さを許そうとは到底思えず、
    多分この先も自分を許すことはないと思います。
    誰に何を言われようと絶対に許したくない。許されない。
    許さないと決めている。という感じです。

    …と書いてきて
    「許す」って…なんなのでしょうかね?
    「許す」という概念自体が、なんだかよくわからなくなりました。

  6. karoさん、こんばんは(^ー^)

    もう何年も前ですが、私も半年ほど飼い猫の点滴を家でしていました。
    採血で注射針を刺されただけで倒れたことがあるくらい(笑)血を見るのや注射が苦手な私も、猫の点滴は本当に辛い行為でした。

    私の場合、猫は家で亡くなったけど看取ることはできませんでした。が、
    健康でも病気でも、自宅でも病院でも、いつかはくる別れ。
    「ごめんね」ではなく「ありがとう」と伝える方が、猫ちゃんは喜ぶと思いませんか?

    ずっと「ごめんね」って言われる猫ちゃんも辛いと思います。
    そういう私だって、飼い猫に対していろんな後悔がありますが、そこは「同じことを繰り返さないようにしよう」という戒めとして残して、とにかく思い出した時は「ありがとう」って伝えてます。

    karoさんにも私にも、こういう感情や気持ちを伝えるために彼らが来てくれたのかもしれません。
    karoさんも充分頑張ったじゃないですか!
    感謝の気持ちでご自身の頑張りも認めてあげてくださいm(_ _)m✨

    すごく似た経験をされた方がいるんだな・と、思わずコメントしてしまいました。
    そして理由は違いますが、私も離婚経験者です(;^_^A
    勝手に妙に親しい気持ちを持って、余分なことを書いてたらスミマセン!

  7. preludeさん、こんにちわ。

    あたたかいコメントを、本当にどうもありがとうございます。
    同じように点滴の経験をされているんですね。あれは本当に辛かったです。
    辛いと思っている私の気持ちを猫が察して、気をつかって針を刺しやすいように
    背中を向けて座ってくれたことがあってその姿は今でも目に焼き付いています。
    自分のほうが辛いのに…。(涙

    仰るとおり、ずっと「ごめんね」はうちの猫にとっても辛いと思い、
    それをうわまわるたくさんの感謝の気持ちがあるので、
    私も思い出す時には「ありがとう」と伝えています。
    が、純度100%のありがとうではなく、
    やっぱり「ごめんね」はどうしてもそこに混じってしまいます…。

    preludeさんからのコメントを読みながら、
    自分は何を許せずに、手放さずに、ずっと握っていようとしているのか…?
    とこれまで客観的にに観ることができなかった
    この自分への「絶対に許さない」と決めた思いに対して
    少し距離というか隙間が出来て、
    あらためて考えられそうな気がしてきました。

    多分、私はその時の自分の心の弱さや脆さに対して
    許せないのだと思いました。
    また、安易に癒されたくないという罪悪感や責任や…。
    いろいろ出てきそうです。
    これはきっと人に対しても同じように「許せない」
    ということにも繋がっている、繋がっていく、
    ことのように思いましたので、少し考えてみることにします。

    10年以上時が止まって固まってしまっていた部分が
    preludeさんからのコメントのおかげで少し溶け出して、
    ほんの半歩だけでも前に進めそうな、そんな気がしました。
    改めて、本当に本当に感謝です。

    バツイチ経験もされているなんて〜っ…(^_^;;
    私のほうも勝手に親近感です。
    今後ともよろしくお願いいたします。

  8. 私もいまだに、ウチの猫の最期を思う時は涙なくてはいられませんが、
    karoさんとのやりとりで、彼らが見せてくれたのはひとつの「無条件の愛」のかたちなんじゃないか?と思いました。

    本当に日々いろんなことが気付きのきっかけになりますね(^ー^)
    こちらこそどうぞよろしくお願いいたします✨

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