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アメリカ人の考えるエゴと日本人の考えるエゴの違い

エゴって何だろう

スピリチュアルの文脈でエゴについての話になると、アメリカ人と日本人の間で、その受け取り方にギャップがあると感じることがあります。そこで今回は改めて、どこがどう違うのか考えてみることにしました。

まず最初に、エゴというものの一般的な定義からおさらいしましょう。一般的と言っても、参照するのは、手元にあるニューエイジ用語辞典です笑。それによるとエゴの意味は、以下のようになります。

  1. 自分。自分であると言う感覚。
  2. 客観的モードの世界とは区別される主観的モードの意識。
  3. アイデンティティをつくるもの。名前や形をつくるもの。
  4. 存在を認識し、つくり、経験するもの。
  5. イドの原初的な衝動と社会の要求の間を調停する経験者(フロイド)。
  6. ハイヤーセルフ、個、魂:バイブレーションを早めるために、あらゆる努力をするもの。急速に増大する力になるよう、下位の反抗的な人格に強制するもの。(神智学者アリス・ベイリー)。
  7. 幸せを確保し、外部との関係においてそれを維持しようとする不毛な努力。(チベット僧チョギャム・トゥルンパ)。
  8. 神と「セルフ」の間を隔てるヴェール。(ヒンズー教)。
  9. 感覚器官が生む幻想による混乱の連続(仏教)。
  10. 評価、またはジャッジするための原則(神学者ジョゼフ・キャンベル)。

※なおカッコ内は、提唱者や教義の名前。Alex, Jack. The New Age Dictionary, Kanthaka Press 1976

上記の定義の内、1~4までは一般的な西洋哲学・心理学的な見方に由来します。エゴと言われて、私たちが一般的に考える定義に近い感じがしますね。

項目6にある、神智学開祖ブラヴァツキ―直下のアリス・ベイリーによる定義は、ぱっと見、ちょっと何言ってるか分かりにくいですけど、エゴとは下位の人格をコントロールするためのもの、つまり、ほぼハイヤーセルフと同様の定義だったんですね。

一方、 項目7~9のチベット仏教、ヒンズー教、仏教に見るエゴの定義に注目すると、結構な辛口な評価になっています。(ちなみにチベット僧チョギャム・トゥルンパは、ナローパ大学というアメリカ初の仏教系大学を作ったグルです)

こうして見ると、「エゴ」にも様々な側面と捉え方があるんですね。

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アメリカ人にとってエゴ/日本人にとってのエゴの違い

さて本当なら「西洋世界におけるエゴ」なんて大風呂敷を広げたいところですが、実際にはアメリカ人しか知らないので、そこに限定します。冒頭にも挙げたように、どうもアメリカ人と日本人では、エゴというものの概念が若干違うようなんですよね。

スピリチュアルの世界では、やたらエゴが悪者にされていますよね。私たちの中に悪いものなんてないと考えれば、それは非常に二元論的な言質であると感じます。

しかしアメリカ人の中でも、特にいわゆるWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)と呼ばれるような人たちにとって、自分たちの文化をエゴイスティックだと批判的に講じることは、ある意味、”善きこと”と捉えられる傾向があります。彼らの歩んできた歴史や人種差別について、客観的で公平な視点を持っていることは、教養の一部でもあるのです。私の経験でも、個人レベルでは控えめな性格を持つアメリカ人はいくらでもいますが、集合としてのアメリカ人をエゴイスティックだと考えない人には、まず出会ったことがありません。 一口にいって、アメリカ人は自分たちのエゴに飽き飽きしてるんですよ笑。

そのような背景のもと、60年代に仏教やヒンズー教などの東洋哲学がアメリカに入って来ると、大勢の知識人がその思想に共鳴し、当時の文化に大きな影響をもたらしました。それがやがてマインドフルネスになり、現在のスピリチュアルに至ります。

一方、日本人は、幼い頃から周りとの協調性や、人に迷惑をかけてはいけないことを繰り返し教えられて育ちます。スピリチュアルの世界では、日本人は集合意識的だと言われることがありますが、元々エゴレスなカルチャーなんですよね。ですから私たちにとっては、自分のために少々エゴイスティックになること、つまり社会の中で揺るがない自分を確立し、大勢の中で自分の声を上げることの方が大切なのかもしれません。

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エゴとセルフ

さて、先ほどの辞書の項目8にあるヒンズー教の定義には、興味深いことが書かれています。曰く、エゴとは

『神と「セルフ」の間を隔てるヴェール』

だと。この定義に従うと、エゴのヴェールがなければ、「セルフ」は神を直接に体験することができます。なお、カッコつきの「セルフ」としたのは、単なる「自分」という意味ではないからです。

ここで言われる神と「セルフ」とエゴとは、それぞれブラフマン(宇宙真理)とアートマン(自我)、その間にあるニラ―トマン(世俗的自己)を西洋風に言い換えたものです。世俗的自我をどう考えるかは、人によっていろいろな受け取り方があると思いますが、彼らにとってはエゴと「セルフ」は別物なんですね。

私たちは、自分勝手になった方がいい時もあれば、そうじゃない時もあります。同様にエゴと「セルフ」も、実際の感覚に基づいて明確な線引きをするのは、なかなか難しいのではないでしょうか。時と場合、そして成長の段階によっても、感じ方が変わります。むしろ二項対立ではなく、グラデーションなのでしょうね。

結局、スピリチュアルは何でもそうですけど、定義はあくまで参考であって、それよりも自分の感覚を使いながら、塩梅やバランスを探していくのが旅路の歩き方なのでしょう。


CCと話していて、このアメリカンマインドめ、と思うことは山ほどあるんですけど、ステレオタイプでくくられるのも嫌でしょうからね。2回のうち3回しか言いません。あ、言い過ぎてる笑。

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「アメリカ人の考えるエゴと日本人の考えるエゴの違い」への3件のフィードバック

  1. エゴって、私は「エゴ=独善的な考え方」とイメージしますが、
    それを他に強要しなければ、それぞれ持っていていいと思うんですよね(^ー^)
    だってエゴのないヒトなんていないし~!

    これからもCC氏と「トムとジェリー」並みに仲良くケンカしてください(笑)

  2. 何がエゴか、って議論と
    何がスピリチュアルか、っていう議論は
    カラダがもげそうになることが多い。

    どちらも
    わたしにとっては自然なことで
    話せば話すほど遠方へ行く気がする。

  3. エゴやネガティブや闇や傷や傷痕が少しくらいあったって、幸せになれるし人生を楽しめたりもするんだと思います(^^)
    神話に出てくる色んな神様も、確かなんかゴリゴリのエゴだらけですしね。
    人間の方がエゴやらネガティブやらを消そうとしすぎて不自然なのかもしれないですね☆

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