私のアウェイクニングの話 その13.幼馴染と一緒に帰った話


幼馴染と一緒に帰った話

同窓会の後、幼馴染と一緒に帰りました。彼と私は、父親同士も幼馴染であり、子どもの頃から家族ぐるみで仲良くしていました。幼稚園も、小学校も一緒です。

しかし、中学校に入ると一度もクラスが同じになることはなく、しかも彼はちょっとヤンキーになってしまったので、今回話したのは、本当に何十年ぶりでした。

酔っぱらっている彼の乗って来た自転車を私が代わりに押しながら、夜道を私たちの地元へと歩きました。

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「できない自分」というレッテル

こうして一緒に歩くのも久しぶりだよねという話の中で、彼が打ち明けてくれたことがありました。

それは、小学校時代の話でした。

私たちは5、6年生でもクラスが同じだったのですが、担任の先生は、私だけをちやほやする一方、彼には、私から遠ざけるような扱いをしたと言うのです。

「それまで俺たちずっと同じ位置でやって来たのに、急に距離が出来て、すげー悲しかった」と、彼は言いました。

そんな話、私はまったく寝耳に水でした。

小学校高学年になれば、女子はすっかり大人びますが、私の幼馴染ときたら、私には全く意味不明なおもちゃやゲームで遊んでいるばかりで、単純に、接点がまるでなかったからです。

また、確かに私は当時、学年に必ず登場するタイプの何でもできる女子で、担任の先生にはかわいがられていました。でも、私をうまく使おうという下心も同時に感じていて、担任である彼女のことは、それほど好きにはなれませんでした。(かと言って、反抗するには幼過ぎました)

一方、彼は、確かに運動も勉強もあまり得意ではありませんでした。でもそんなこと、この話を聞いて初めて思い出したくらいで、私は気にしたこともありませんでしたが、逆に言えば、彼が気にしていることにも、気づかなかったのです。

そして彼は「できる私」と「できない自分」というレッテルを感じ、悔しい思いをしたのだろうなと言うことは、彼の口ぶりから分かりました。

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レッテルなんて、要らないのに

「私、一度もそんなふうに考えたことないよ」

そう言おうとしましたが、これは当事者じゃない側の論理なんだろうと思って、言うのを思いとどまりました。私がなんと言ったところで、彼が傷ついてきたのは確かなのです。

「誰かが作ったレッテルを、自分で受け入れて、それで自分を苦しめて来ただけなのに…」

そう思いましたが、これも、もちろん言えませんでした。

「ごめんね。そんなこと考えてたなんて、知らなかったよ」

と言うのが、精いっぱいでした。

「今日のことは、あの時、俺とお前を離した担任に対する、俺なりの復讐だと思ってる」

ヤンキー理論だと思いましたが、彼が満足そうだったので、私も一緒に手柄を立てたような気分になりました。

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自分で貼ったレッテルを剥がす

本当は、みんなが「ただの自分」であって、そのままの自分でぶつかって生きていけばいいだけなのに、どうして私たちは身構えてしまうのでしょうね。

私たちは人から言われたという理由で、もしくは自分の劣等感や優越感から、自分にも他人にも、沢山レッテルを貼り付けます。

私は、レッテルを貼り巡らしてべたべたになった繭の中から、さっそうと登場する「ただの私」でありたいと思います。

繭から登場する私は、ちょっとドロドロだったり、ホカホカのフヨフヨかも知れません。でも、それでいいじゃん。

繭の中にいるよりは、ずっと自由に呼吸できるはずだからです。

 

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29 コメント on "私のアウェイクニングの話 その13.幼馴染と一緒に帰った話"

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12と13のお話、ほんわりした中に結構ガツンと来る事が書いてありますね。
そんな思いを私も何度かしたような気がします。何か無意識というか忘れちゃったみたいな。
今、とても大事な何かに触れたような、そんな感じ。

遠くアメリカにいらっしゃるんですね。毎回楽しみにしています。あなたの事よく知りませんが、文章からゆったりした優しさを感じます。引き続きよろしくお願いいたします。ありがとうございます。

ホカホカのフヨフヨがツボです。
また1つ乗り越えていけそうです。

歳を重ねるのも悪くないよね(o´∀`)b
と、思えるお話です(^ー^)

いつか彼が、レッテルを受け入れたのは自分だったと気がついてくれたらいいですね。
きっとその時、メタさんの「ごめんね」に「こっちがゴメン!」て思うんでしょうね。

私にも他人の勝手なレッテルをバカ正直に受け止めていた時期がありますよ。ピュアですね。
もし今、でべそ!というレッテルを貼られたとしても、この人には私がでべそに見えるのね。とレッテルをそっとはがして、風に泳がせて捨てちゃいます。心が楽です。

このような出来事は俯瞰して受け止め、内省できるかどうかの最終テストみたいに最近は思えるようになりました✨

繭って、自分で紡ぎますもんねぇ。メタさん、めっちゃうまいこと言わはる…。
レッテルを、どういうベクトルで扱うかっていうのは、人それぞれだと思うんですけど、私は幼馴染さんの素直さに、グッときました。
ついでに子供の頃の無力感も思い出しました。早く大人になりてえな〜思いながら成長して、未だに、早く大人になりたいなあ!とか思ったりします(笑)。
宗教家ビザのお話、楽しみにお待ち致しておりますm(__)m。

お友達にかけるのをとどめた言葉とその理由のところを思わず読み返しました。

どれも、かけて相手を傷つける言葉でも
、言い方が乱暴ですが普通に使われる、無害というかさし障りない答え方でもあると思うのですが、

そこをさらに、この時のお友達の思いに近づいて言葉を出されている繊細な関わり方、本当にすごいと感じました。
まして、親しい人との関わりの中で。

私も管理人様のように、
目の前の人に対して細やかに、その時々の相手の思いに寄り添って言葉を選べるようでありたい
と、
逆に自分が、レッテルつきの言葉をかけられても受け止め過ぎないで、
相手のレッテルも判断しないで、いられるように。

悩むのは、自分の立場から物事を見ているときなのかもと、思えてきました。
練習あるのみだと、気持ちが切り替わった感じです。
今回の記事、私にとって具体的な目標につながりました。本当にありがとうございます。゜.+°

幼馴染くんへの返答を即座に反応することなく、一呼吸おいて何を言おうか選べるのって高度な技術と練習のたまものだと思います。瞑想の成果ですよね?おそらく。とっても素敵。

でも、私もこういう時まだちょっと悩みます。人は何を考えるのも、何を選ぶのも、何を言うのも基本的に自由で、しかも人生の局面局面で変わるものですよね。それに対して自分サイドは過度に先読みして忖度したり、または相手にとってはそのときは不必要で頼まれてもいないアドバイスをあげちゃったり、逆に下手に出過ぎちゃったりしていないかなーって。

だから私もメタさまと同じようにやっぱり「そうか、知らなかったよー」って言うんだろうなーって思いながら読みました。本当に知らなかったわけだから。そうすると無関心と一歩引いた感(detached)の違いって果たして何だろー?って考えてしまいます。

rosepetal from new dimension

カルロス・カスタネダ著ドン・ファンの教え曰く、アウェイクニングの正しき道の4つの敵は「恐怖」「明晰さ」「力」「老年」だそうです。
つまり「おそれるな、なんでも知ったような気になるな、力を振りかざすな、『これくらいやったからもういいだろう』と途中下車するな」ということらしいのですが、メタ様は実践されていますね。
素晴らしいです(^^)

読んでいたら、なんだかぽろぽろ涙が出て来てしまいました。自分のレッテルの繭、そろそろ破りたいです。ふわっと肩の力が抜けるような、メタさんの文章が好きです。いつもありがとうございます✨

「レッテルを貼らない」というところで強い決心を抱くと、それも形を変えたレッテルとなり、窮屈な枠組みに閉じ込めてしまいますね。レッテルという思い込みシールを「貼らない」というところから始まって、そもそもそういうモノが無くなっちゃう、解けちゃってぶよぶよになり、只、とっても正直に体現している「自分が在る」というところに行き着きたいと思いました。

「自分って何者でも無くて、何者でも良いんだ」というところですね。

自分・他人、環境も、五感で感じるすべても含め、日々流れる様な毎日の日常も、思い込みというレッテルを剥がして自然のままに生きたいですね。

メタさんがアメリカに行かれても、アルゼンチンに行かれても、南極に行かれてもね。
きっと、ここに集まっている皆様や、コメントは残さずとも、静かに読まれている方々もじんわりと通じ合う感覚的な家族であり、沢山の幼馴染がいらっしゃるように思います。

ということは、メタ通信での出会いは、ある意味、ここでも同窓会ですね^^

いつも素敵な記事を有難う御座います^^

自分でレッテルを貼ってはレッテルののれんをくぐり
貼ってはくぐりしてるんだと思います。
だんだんコツがつかめるようになると思うんですけど
いつでもツルッとむきたまごみたいになって
のれんから顔を出したいです。

みなさまでメタさまの同窓会についていったみたいになってますね。
コメント欄が面白くて、前のも含めて増えてないかチェックしちゃってます。