私のアウェイクニングの話 その39.カリフォルニアレッドウッドの盆栽


カリフォルニアは、全米でもっとも日本人の多い州だとのこと。そう言われれば、うちの近所にもジャパニーズガーデンがあるので、せっかくですから行ってみましょう。

ジャパニーズガーデンの入り口には鳥居があるのですが、看板が出てませんから、神さまはいないようです。

鳥居を抜けてしばらく歩くと、盆栽ガーデンがあります。 なにしろ北カリフォルニアの盆栽団体を取りまとめる本部組織になっているそうですから、期待が高まります。どんなもんでしょうか。

中に入ると、こんな感じ。これはジャパンですね。
黒松。日差しの色も相まって、実に風情がありますね。

園内には、数百点に及ぶ盆栽が展示されていました。 日本文化が現地の文化と融合して、盛んに実践されているのを見ると嬉しいですね。 中でも面白かったのは、アメリカの樹木を使った盆栽です。

左から、アイビー、カリフォルニアレッドウッド(セコイア)、オリーブの木。言われれば、どれも見慣れない気がします。

カリフォルニアレッドウッド(セコイア)は、西海岸の海岸線に沿って自生するヒノキ科の樹木で、樹高は大きいもので100mを越す、世界有数の巨木です。ニューヨークの自由の女神で全長93メートルですから、それよりも高いんですね。

私はすっかりレッドウッドの盆栽に、心を奪われてしまいました。100メートル近くに育つものが、こんなにコンパクトに収まって、でもやっぱり存在感があるんですよ。大自然の雄大さが、ぎゅぎゅっと凝縮されています。

もっと渋いのがありました。これもレッドウッド。

来世はバカボンのお父さんみたいに植木屋さんになって、植木や盆栽を通じて宇宙を感じたいです。

・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、おなかがすいたので、開店したばかりの、街で一番ホットなヴィーガンBBQ屋さんに行きました。

お店の名前はヴィーガン・モブ。混んでます。 http://www.sfveganmob.com/
奥にDJブースがあって、音楽が楽しめるのですが、おなかが減ってそれどころじゃない人たちが、オーダーが出来るのを真顔で待ち続けています。
私が頼んだBBQホットドッグ。ひたひたになるほど、チーズソースがかかっています。これはワイルドだよ。
ナチョス。トルティーヤに豆の煮込みや肉、チーズなどをかけたもの。メキシコ風のスナック。

どちらの料理も、甘めのBBQソースで味付けしたべジミートに、ほっこりした豆の煮込み、とろーりチーズなどが、てんこ盛りでかかります。ジャンクなので、ハマる人にはハマる味です。

しかし、つい調子に乗って食べちゃいましたけど、私、べジミート、体に合わないんですよ。去年までは大丈夫だったんですけど。トウフで作ってほしいです。


アメリカで’は、バーガーキングやウェンディーズなど、主要ハンバーガーチェーンで続々と、ヴィーガンバーガーが導入されています。マクドナルドは、現在、カナダの店舗で試験的に実施されていて、アメリカでも来年あたり、いよいよ発売になる気がします。ヴィーガンビッグマックの時代が来るなんて、ご先祖様もびっくりです。

関連記事:  ゆうべ宇宙人に聞いたライトボディの作り方

6
Leave a Reply

4 Comment threads
2 Thread replies
0 Followers
 
Most reacted comment
Hottest comment thread
5 Comment authors
新しい順 古い順
prelude

盆栽って、小さな宇宙のようなもの・と例えられたり、
本当に人間の技術と知恵と工夫と、植物の生命力と、いろんなものが一体となった奥深い世界だと思いますが、

日々生きている「自分」としては、盆栽のように狭い所で完成された存在ではなく、
のびのびとどこまでも伸びたいところに枝を伸ばし、根を伸ばして、青々と茂っていたい(・∀・)

そして思い出したセリフ・
「小さくまとまんなよ!」って、何のドラマの誰のセリフでしたっけ(笑)

miko

昔、硯の有名な収集家が、芸術的な硯を見て宇宙を感じると言っていました。

私は、お経の法華経と維摩経と、ジブリ映画の数点を見ると、宇宙を感じて不思議な世界に迷い込みます。

ユングの本を読んだ時、ユングも曼陀羅に心惹かれ、その前後、どちらか忘れましたが、同じように不思議な世界に迷い込んだと書かれていました。

miko

私は、昔から不思議な世界に迷い込んでしまうことが多々あったんですけど、20年くらい前、あるピアニストと出逢い、彼にこんなことを教えてもらいました。

「 僕たちは、日に、7時間も8時間もピアノの練習をする。そうすると不思議な世界に迷い込んでしまう。僕たちはピアノの練習をしているのではなく、不思議な世界から出てくる練習をしているんだよ。貴女も僕たちと同じ種類の人間だから、出てくる練習を、これから毎日やりなさいね。」

私は、彼の言っていることが、よく理解出来ました。

それから、20年たつんですけど、不思議な世界に一瞬で入れますし、一瞬で出てくることが出来るようになり、出入り自由になりました。

なので、精神世界の勉強をしながら、普通に社会生活が送れています。

このことを自覚していないと、宇宙を感じられるようになると、脳や心が壊れてしまう人もいるそうですが、心配しなくてもそうなる前に、魂がなんらかの形でストップをかけるようです。。。

dtr

素敵な盆栽…
アイビーとオリーブも
丹精込めて作られてますね。
小さな宇宙万歳。
また、ヴィーガン
マクドナルドで販売ですか。
すごい時代になりましたね。
こちらでもネットのミールキットで最近見かけます。
流行りというか雰囲氣で
普通に肉料理と一緒に売られているところが
微笑ましいです。
注文したことはなくチラチラ見てるんですが
美味しそうで氣になってます。

aohana

先日、ラジオ番組に出て人様の人生相談を聞かせていただく機会がありました。
過酷な人生を懸命に生き抜いておられる方、たくさんいますね。

そしてそういう沢山の方に何かを届けようとするときに、スピリチュアルな話法に特化しすぎると、実は、より広く遠くまで届けることができない面が多々ある、ということを学びました。

だって、スピリチュアルを受けつけない人、否定してる人、信じない人、バカにしてる人っていっぱいいますものね。
けれど、そういう人たちだって、生きる中で苦しみ、躓き、なんとかヒントを得たいともがく状態というのは、なんらの差異なく同じで、誰もがみな同じように尊い苦悩の歩みの途上にいる訳です。

ひょっとしたら、唾棄してコケにしなければやってられないほど、スピリチュアルにハマったことによって痛い目を見たのかもしれない。
(スピ沼にはまって仕事捨てたり、家族や友人捨てたり、借金作ったり、セミナーに大金注いだり、キラキラチャネラーデビューしちゃったり、そういう人いっぱいいますからね)

霊能者の江原さんが一部では強い反発を受けるのと同じで、彼はそういう方々をバカにして溜飲下げてますが、しかし反発する方々にも、自ら人生を解決してきた自分なりの道のりや方法論がある訳で、守護霊や前世などの見えない世界を信じすぎることの危険性を体験的に知っている人もいる訳です。

そういう方々を前にしたときに、スピリチュアル話法って、スピリチュアルであるが故に、効力を発揮しない、心に浸透しない、救いの手引きとならない、という場合が多々あることを理解するようになりました。

スピリチュアル話法を絶対視したり、固執したり、「分からない者はバカだ、未熟だ、体験がないから分からないのだ、まだ悟りの深度が浅いから分からないのだ、メンタルが揺れて危ういのだ、受け入れる準備が整っていないのだ」などといった考え方を身につけてしまうと、結果、対話ができるはずの人と対話が成り立たなくなり、本来は薬になるはずの言葉もいっこうに届かない、ということが起きる。

(この手の「準備ができていない」「危うい」系の話法は、こちらでも数多見かけましたし、自分もそういう考えを身につけていました。不要な信念ってやつです)

それは「宗教」が持つ限界と同じ性質のものだと思います。
宗教戦争の起点となったものでもある。

だから、本当に広く遠い範囲の人に何かを手渡そうとするときには、宗教やスピリチュアル的な考えを、ものすごく希釈させたり、ときには「隠すこと」「捨てること」も重要であるという事を理解するようになりました。

つまり、目の前の誰かに本気で「助けの綱」を垂らしたいと思ったときには、「自分が信じていること」を真っ先に捨てることが出来るのかどうかを問われるシーンにも出会うのだと知りました。

それが出来ないという事は、結局のところ、本当に人を助けようとはしていないのであり、ただ「自分の信じる説法」を、つまりは「ご高説」を述べたいだけの人間に堕してしまってる状態だったのだなあと。
自分は、まさしくその状態に転落しておりました。

「信仰を貫くためには、何度も信仰を捨てる必要もある」ということかもしれません。


そういったことは、この場とフォーラムで、さまざまな方との軋轢や摩擦も体験しなければ、分かることができませんでした。
何事も「理解」というものには、手順や段階があるものだなと、つくづく思います。

否定的な体験には、常に、いちばんの恩寵となる芽が埋まっていますね。

ありがたくないことは、もっともありがたい。

aohana

じゃあ何がいちばん普遍的に人の心を打ち、救うのかというと、その人の「現実に体験した人生」じゃないか、と思いました。
「私もこんな辛い過酷な目にあって苦しんだけれど、こんなふうに乗り越えてきたんですよ」
という「同じ辛さを知る者」からの理解や受容。

だから、たとえダライ・ラマだろうが、ローマ教皇だろうが、どんなに「本物の聖人」らしく見える人物であろうと、救うことのできない人は、地上に大勢いるんだな。
だって、熱心な新宗教の信者はローマ教皇がいくら素晴らしい「お説法」を述べようが耳を貸せないものね。

人は縁によって結ばれた、業の結びつきのある誰かによってしか救われない。
その、自分を救う人物は、偉い人や、聖人や、有名人、賢い人とは限らない。
ともすれば、犯罪者や病人や貧乏人、一般的には悪人や愚者や狂人としか見られない人に救われるケースだってある。

それが、縁の不思議というものではないだろうか。
だからこそ、ひとりひとりの人間に、まったく個性的な人生の歩みがあるのだなと思いました。