スピリチュアルを真面目に考えすぎるのはやめよう

YouTubeで人気があるスピリチュアル・スピーカーの一人に、コイ・フレスコ氏がいます。ドラッグ依存や抑うつ、希死念慮というゴールデンパターンを抜け、仏教徒として目覚めた彼の言葉を聞いてみましょう。


スピリチュアルを真剣に考えすぎない

こんにちは。僕の番組へようこそ。この番組は、個人の内面的な成長のために作られています。

今日、みなさんにお話ししたいのは、スピリチュアルを真剣に受け取り過ぎているなら、それはやめようよと言うことです。

僕はよく感じるんだけど、自分の道を探すためにスピリチュアルコミュニティに所属したり、プラクティス始めたりする人は、度々自分を見失ってしまうことがあるんだよね。それじゃ従来の宗教的価値観と同じなんだ。

スピリチュアルの教えは、人生が変わるようなものが沢山ある。自分の心に当てはまる教えを探し、自分の心に平和をもたらしてくれるプラクティスに従事するのは、素晴らしいことだ。

真剣に取り組むのは、とても良いことのように思えるよね。

でもそんな時、僕らは、自分たち自身も幻想であるという考えを、忘れてしまっている。

・・・・

スピリチュアルであるからと言って、良いとは限らない

「スピリチュアルに興味を持たない人たちは酷い人生を歩み、スピリチュアルな人たちは素晴らしい人生を歩む。努力は報われるべきであり、自分はスピリチュアルに真剣に取り組んでいるから、素晴らしい人生を与えられるべきだ」

その考え方は一理あるかも知れないけど、非常に西洋的だよね。実際は、必ずしもそうじゃない。

スピリチュアルな教えに従わず、マーヤー(幻想)に生きている人でも、人生を愛し喜びに溢れた人がいる。

一方、スピリチュアルに真剣になり過ぎて、悟りやニルヴァーナ(解脱)から、どんどん遠ざかってしまう人がいる。全体性や完全性といった概念や純粋な平和から、自分を切り離してしまうんだ。

その状態に到達できないのは、自分のプラクティスやスピリチュアリティに執着があるからだ。

・・・・・

君には君の道があり、それは君を通じて花開く

スピリチュアルの教えに真剣に取り組むのは良いけど、真剣に取り組んでいるから、目覚めてるとか、いいことがあるっていうのは、またちょっと違うと思う。

ニルヴァーナ(解脱)とは、何かを欲しがる心の消失を意味する。悟りを求めて仏教の教えに従う人は、それを得ることはないだろう。それはプラクティスを通じて花開くものであり、求めて得るものではないからだ。

スピリチュアルの教えを文字通りに受け取るのは、たとえばキリスト教が「神」という言葉を真剣に考え過ぎるようなものなんだ。何でもこだわり過ぎると、視点を狭くしてしまうんだよ。

だからスピリチュアルに対しても、ニュートラルな立場を保つがのが大切だよ。瞑想だって、瞑想したいからするんであって、悟るためにするんじゃない。何かを期待するのは、エゴの仕業だからね。

スピリチュアリティは、海のようなものなんだ。素晴らしいけど、それ自体が究極の答えではない。その中にたゆたうことで、君は純粋な愛と奇跡を感じることが出来る。そして君は君の道を行くことで、答えを探すんだ。

その答えは、スピリチュアルの教えを通じて、君の中から自然と花開くだろう。


彼の番組はたまに見てたんですけど、頭が良くて何言ってるか分かんないから、もっと簡単に言ってくれって思うことが多く、これまでなかなか記事にする機会を逃していました。

でも話してる内容自体は、すごく共感します。